田布施町と国木田独歩

「定本国木田独歩全集」より

「田布施時代の国木田独歩」林芙美夫著  郷土館叢書第二集

平成7年11月3日発行   発行所 田布施町教育委員会

「田布施時代の国木田独歩」林芙美夫著  郷土館叢書第二集 (改訂版)

令和3年10月20日    発行所 田布施町教育委員会

上記の著書の序に次のように紹介されている。

「山口県にゆかりの近代文学者として、最も著名なのは国木田独歩である。彼は千葉県銚子の出身であるから郷土作家ではない。だが、37年の短い生涯の大半を山口県に在住し、その各地に多くの足跡を残している。彼が清らかな防長(周防、長門の国)の風土を背景に描いた作品は30余編ある。うち「帰去来」「富岡先生」「少年の悲哀」「酒中日記」等々、独歩の代表文学揺籃の地であるということができようか。」

そこで国木田独歩の足跡を辿って、私は単に田布施町だけでなく隣接の柳井市及び平生町を訪ね、写真を撮ったので、その主なものを次に紹介する。なお、現在は無くなっている過去の写真は「定本国木田独歩全集」、上記著書、「名所・史跡を散策する会ー国木田独歩」(田布施町観光協会)。「柳井地方と独歩」の栞及び谷林博著「青年時代の国木田独歩」(柳井市教育委員会)「若き日の国木田独歩」上杉玉舟篇(柳井図書館)から写真を借用して、ここに記載させていただく。
なお、写真の説明文の中、「〜月〜日」など日時に関する文は、すべて「欺かざるの記」よりの引用である。
2021年6月「帰去来」の綾さんのモデルに関する綴集「独歩と石崎家ー母の回想ー」中村倭文(シズ)を関係者(中村シズ江様)からお借りすることが出来ました。そのご了解を得てこのホームぺーじに紹介させていただきます。

1. 国木田独歩仮寓吉見家跡(案内標柱)

この標柱左側の道を奥に入り、左に曲がった所、現在は草木が茂っている。屋敷への道の左側、一段下がった所に次の石標が建っている。
國木田獨歩生誕150年にあたる2021年2月に國木田獨歩仮寓吉見家跡を訪ねると、「國木田獨歩仮寓吉見家跡」の案内標柱が無くなっている。辺りをよく見ると、縦10cm横30cmぐらいの紺色の標識板に白い文字の案内板がある。これでは目立たないので、案内板がないのと同じである。教育委員会に尋ねると、以前の標識が倒れて壊れたので、取り替えたとの返事。でも、これでは小さい上に、目立たないので何の役に立たないと言っておいた。
数日後、再度現地に行ってみると、次のような新しい標識が設置してあった。今度は前よりは大きくなっているが、元からあった白い大きな標柱にはかなわない。

「国木田独歩仮寓吉見家跡」の案内板

2. 国木田独歩仮寓吉見家跡 (石標)
3. 国木田独歩仮寓吉見家

「吉見家(戸主競は死亡)の親子は門を入って右側にあった離屋に住み、国木田家は母屋を借りた。独歩は本宅の南向き床の間つきの八畳の部屋を借りた。」「青年時代の国木田独歩」より

「右側松の木の向うが「東家旧宅」。正面山林の裏側 羽隅家」但し此のあたりは戦時中

軍の徴用で、現在は影も形もない。」「若き日の国木田独歩」より

國木田獨歩と弟の収二が両親と吉見家及び浅見家に仮寓したのは、明治24年5月から25年の2月まで、その後は隣の柳井市に移っている。

’ 改築された独歩が住んだ部屋

 

改築された独歩が住んだ吉見家の部屋

 

3’独歩愛用の月琴

 

独歩愛用の月琴

木曜5月21日

平生町に至り、三木より月琴借り来る。

月琴は中国伝来の楽器で胴は円形で平たい。独歩の月琴好きについては、麻里府村石崎松平衛の六女山根ユリが「こんな田舎ですから目立った、あか抜けした美男子で、読書家でしたが、一番印象に残っているのは月琴の上手なことでした。たまに尺八も吹いていました。」

4.吉見家跡と背後の山を遠望
[

「独歩がよく登ったという吉見家の裏 吉見山は、まだ恋しさが一段と深く、慕しきまゝに裏道から登り、あの古木、この老樹と、どれも独歩の手のふれたものであろう如く、いとなつかしく、いつまでも、いつまでも去るに忍び難いものがあった」(昭和12年8月)「若き日の国木田独歩」上杉玉舟篇より

「明治24年の日記「6月7日美日、午前収二(弟)共に毛氈を携へ屋後の山に登り老松の影、眺望佳なる所に敷き、読書、談話、暫くしてチエ嬢来る、3人相携へ、ホランドウ(サンキライ)の葉を摘む」

「屋後の山」には麓から鳴子が仕掛けられてあって、それで合図をしあった。

 

5.「前の山丘」高塔山を吉見家跡から望む」

高塔山の説明は、この山の反対側・後ろ側に当たる八海(やかい)側から撮影した写真8番めで行います。

  1. 麻里府海水浴場 (今は無し)

日曜19日、天気晴朗。午前8時前父及び収二と共に別府(麻里布)に至り吉見女主人を訪ふ、父は余が海

水浴の為め到留す可き宿所の事に付て行きたるなり。「青年時代の国木田独歩」より

  1. 独歩の仮寓した浅見家

「独歩は浅見家にきて同家の親戚に当たる石崎家にしばしば遊びにでかけた。家はすぐ近くの海に臨んだ家で あった。(四女タメの家庭教師として隔日にいった。ときには泊まることもあった」(昭和17年の水害で流失した。)「青年時代の国木田独歩」より

在りし日の石崎家の写真が見つかったので、次に紹介する。「若き日の国木田独歩」上杉玉舟篇より

「独歩兄弟が室借りして居た周防灘(山口県)熊毛郡麻郷村(麻里府村) 石崎吾一氏の家、
(左の下に窓の見える室)(昭和9年8月2日記者撮影のもの 昭和17年の水害で流失)「若き日の国木田独歩」上杉玉舟篇より)

当時の思い出を、独歩は「海の楽」(家庭雑誌 明治28、4,10)に「余は嘗(かつ)てて西国の海浜に一夏を過ごしたる事あり、余が仮寓したる家は朝鮮貿易を以て業となす。其の家屋海上に突き出て汐満る時は家の三面殆ど海となる」

  1. 八海から望む高塔山(高叫山)

「独歩は吉見トキの三女ハルをつれて近くの高塔山(独歩はよく高叫山と呼んだ)に登った。ここから室津半島の箕山や、柳井の琴石(山)をはるかに望むことができた。

独歩はハルに次の詩を作って口吟した。

 「雲やどこへいく/お前のあしははやいな/ 箕山へいくか/琴石へいくか」

「青年時代の国木田独歩」より

「6月22日夕方収二(弟)と共に高叫山に登り高叫絶呼す。蓋夕陽西に燃へ晩霞東に起り美景言ふ可からさりしを以てなり」

8−1高塔山の山頂 三角点
以前から高塔山の登山道を歩いてみたいという気持ちを地元の地理に詳しいお方に伝えていたけど、お忙しいことと、腰の高さぐらいまで笹やシダなどが茂っているので、3〜4人いないと難しいということで伸び伸びになっていた。
今日(平成31年4月2日)田布施町郷土館長の高橋氏に別ルートで登れることを教えていただいた。それは鉄柱アンテナまで急斜面の草が刈ってあるので、ここからなら、一人でも大丈夫だろうということだった。
早速、その場所を探して、急な斜面で足元が滑りそうなコースをステッキの助けをかりて、鉄柱アンテナまで登ることができた。
しかし、そこから尾根道への方に進もうとすると、大きな枯れ木が倒れて邪魔をするし、あたり一面シダが茂っている。鎌でシダをなぎ倒し、小さい木を切って、倒木の下をくぐって20mばかり東へ進むと、三角点にたどり着いた。
8−2高塔山の山頂の様子
三角点の位置から周囲を見回すとどちらを見ても、鬱蒼とした樹木と草木で周囲の見晴らしは無い。国木田独歩が登った頃は見晴らしの良い状態であったのだろうが、風呂や竈の薪は使わないし、建築用の材木を使わない。人が山に入ることがない時代である。南方面の平生町の写真を撮っても、茂った草木の上に微かに箕山のシルエットが確認できるぐらいである。
鉄柱アンテナのそばには大木があるが、その樹下から南東の方にカメラをむけると、平生町の街や箕山の山並みが見える。

「帰去来」の一節
「其処で自分は先ず近郊中の最も高き丘なる「高塔」と称するに登った。高いと言っても麓から十分もかからないで、其頂に達することが出来る。満山ただ姫子松ばかりで立ち寄る木陰もないが、眺望は第一である。自分は「高塔」の頂きに立って暫時(しばらく)我が故郷(ふるさと)の全景を見渡し遠く南の空、山ひらいて、海面の見ゆるあたりには雲の峰兀(こつ)として聳(そび)ふるを見、何時(いつも)ながら我村落の美なる、穏やかなる、静かなる、そして豊穣なるを祝福して後(のち)此の(次の)小さな丘へと来た」

9. 米出から望む城山

「6月11日 午前収二と共に城山(じょうやま)に登る。眺望佳絶、近郊遠野、水鳥雲山、双眸にあり。

夜チエ嬢収二ト共に蛍狩りに行く帰宅後吉見にて談話」

10. 招魂社(惣田山の麻郷神社-護国神社)

「7月5日 晴、午前真神を賛美し、郊外山野を散策して招魂社に至る、遥かに水場湾内白帆の掛るあり。見下せば稲田、青々、時に農夫の里歌、ろふろふと耳をかすむ」

11. 馬島 (国道188号線から望むー「国木田独歩の詩碑」移転前の場所から望む馬島)

「5月10日此の日はめばる釣に行く可しとの事故、父及余と弟と3人午前8時前より外出。某所に舟に乗じ馬島辺を終日遊び暮らす日全くくれて帰宅」
小説「酒中日記」の舞台

12.別府の住吉神社(帰去来—二人が通った神社、

「独歩は母を別府の住吉神社の祭礼に誘い、同道して上京することを強く迫ったと
申しておりました。」「独歩と石崎家ー母の回想ー」中村「独歩と石崎家ー母の回想ー」中村倭文(シズ)より
「丁度住吉様のお祭りの日、あの鳥居の横の石に腰をかけていた時、あの人が、自分と一緒に上京してくれないかといったのを覚えている」と申しました。」
「若き日の国木田独歩」倭文子さん談より
***

「綾さん何をしてるの、其処で。」
「何も取れませんから、休んで居ります。」

「峯雄さんは何時東京へお帰んなりますの。
何時(いつ)って、未だ決めないが、未だ二週間、事に依ったら三週間は〜
私は何だか東京へ行って見度うて。
行けば可いぢや有りませんか。今度私の帰るとき一同(いっしょ)に行きませんか。
左(さ)うなると私はどんなにか嬉しう御座いますが、最早それも出来んやうになりました。」
「其時、ぬっと我等の傍に衝立つたのが五郎である。綾子は直ぐ顔を背けて了った。」「帰去来」より

13. 浮島神社

「8月7日「昨日朝吾家を出で、麻郷村なる吉見氏を訪問す。恰も此近在の村社祭礼に会す。此夜一泊す。       今日も吉見と東の両家にて日を消せり。実にこれ別天地なり」

「近在の村社」は、川添の小丘上にある浮島神社である。同社の祭日は旧暦7月6・7日であり、新暦では8月6・7日になる。  「ひねきり明神」の別称があってお祭りの夜の参拝者で賑わう頃、人込みの中で娘さんのお尻をそっとひねきる風習があった。

14.独歩波野英学塾跡の石標

「明治24年10月独歩は、廃校になっていた田布施村立金声尋常(東田布施)小学校 長合分校の校舎を借り受け、萩の松下村塾を模した波野英学塾を開設した」

15.富永有隣の石碑・肖像

 

 

                   富永有隣肖像

独歩は吉田松陰に傾倒し、吉田松陰回顧録や関係の文献を読みふけっていた。その松下村塾で教鞭をふるった富永有隣に会うために明治24(1891)年8月中旬、隣接する田布施村江崎の

の定基塾に、塾生の有田久治の案内で富永有隣を訪ねた。その時の会見記「吉田松陰及び長州先輩に関して」を国民新聞に発表した。「富岡先生」は富永有隣を主人公にした小説として知られている。

15江崎の’定基塾跡の案内板・江崎の定基塾跡

 

富永有隣 定基塾跡 の 説明板           江崎の定基塾跡

 

 

16.「帰去来の田布路木峠」の石標及び峠のスケッチ

国道の方に向かって立っているが、花壇の奥で、しかも高い所にあり、案内板もないので、注意いして良く見ないと分からない。独歩が人力車で走った道路はこの石標の向こう側にあり、その向こうに茶店があったそうである。
右側のスケッチで良く分かる。「若き日の国木田独歩」上杉玉舟篇より

「田布路木の峠を越えると我家の後なる丘の松林が、微にそれと見分けがつく。水場の入江と続いて天際の一線を画するは波静かなる周防灘、目に映じて白く立ちのぼる塩浜の煙。豊年だな!自分は思った。」

17.国木田独歩旧宅「独歩記念館」(柳井市姫田)

「柳井地方と独歩」(柳井市教育委員会の栞)によると、「独歩が20歳の春明治25年独歩一家が市山医院の好意によって、新築の上、貸し与えたものである。

明治25年4月「一家は柳井の神田家から市山増太郎の邸内に転居。大野の有斐学館に英語を教えに行った」

18.独歩石碑「独歩の碑」(上記「国木田独歩旧宅」の玄関前 (柳井市)
19.「光台寺、独歩旧宅」案内標識  (柳井市)
20.光台寺山門 (柳井市)
21.「国木田独歩曽遊の地」石碑  (この辺りを独歩が良く散策した)
「姫田の光台寺境内、大師山、三ヶ岳、琴石山にも登る」
22.「読書の戒」石碑、独歩の像 (柳井市観光案内ー町並み資料館前)

「書を読むは多きを貪るに非らず 唯章句熟読を要す

静思すること久しければ義理自然に貫通す。   哲夫」

「独歩が浅見家にいた頃ユリは小学校3年生、ミネは1年生であった。ある日独歩は次の文章を書いて与えた」(上記「読書の戒」)「青年時代の国木田独歩」より
「国木田家が初めて借りた家は、柳井津町第435番地(現在の金屋町の山口銀行柳井支店ー町並み資料館)の敷地内であった」「青年時代の国木田独歩」より

23.三角餅の藤阪屋(柳井市)

「明治27年9月4日吾が父母、吾が兄弟の未だ佐伯より帰省せざる殆ど一ヶ月の前姫田なる家を去りて、柳井町を少しく隔たりて海に近き宮本てふ処に転居したり。
此の借家の本家は隣家の餅屋なり。此の餅屋は宮本の三角餅とて名物なり。」

この写真を撮影した日(平成31年1月21日)丁度この家のお方が家の前で、4人の業者と「置き土産」の石碑のある前庭が草で覆われているので、その除草作業の依頼をしておられるところであった。
そのお方のお話では、「現在は三角餅の製造営業は中止している」ということであった。古いお店の時には、お店の前に見事な白藤の木があったようであるが、今は名物の三角餅も白藤も姿を消している。

24.「置き土産」の石碑 (柳井市)

「餅は円形(まる)きが普通(なみ)なるを故意(わざ)と三角に捻(ひね)りて客の眼(め)を惹(ひ)かんと企(たく)みしやうなれど実は餡(あん)を包むに手数のかゝらぬ工夫不思議にあたりて、三角餅の名何時(いつ)しか其の近在に広まり、此茶店の小さいに似ぬ繁盛····」「置き土産」

25.「岸の下」(柳井津の港—当時の柳井港)
当時は大分の佐伯へ行くにもこの港から広島の宇品へ、宇品から四国の三津浜港
へ、三津浜から佐伯の葛(かずら)港へと大変であった。

 

「7月24日午後山口行の要意をなす。八海橋まで収治チエ見送オル。平生町(柳井)岸の下まで乗車、角屋てふ問屋にて下りの飛船を待つ。
7月25日午前2時半三田尻港に着。早朝人力車、山口に出発、佐波山隧道依然タリ鳴瀧依然タリ、御堀外郎依然タリ高峰(鴻ノ峰)依然タリ鰐石鉄橋依然タリ」

26.水場の港(平生町)水場の渡し〜戎が下の渡し(田布施町別府 今はなし)

 

「少年の悲哀」に出る水場・別府(戎が下)の渡し
「絵日傘の女も一人つくなんでいる。舟が揺れるたびに、えくぼをつけて、微笑を浮かべるのがたまらなく美しい。きよらかに澄んだこの海を往復するこの渡し舟こそこよなき画題であるが、独歩も幾度か往き来したことであらう」「若き日の国木田独歩」上杉玉舟篇より

27. 水場の百済部神社(平生町)
「少年の悲哀」(こどものかなしみ)の舞台「名所・史跡を散策する会—国木田独歩」(田布施観光協会)
28. 有斐学館(平生町大野 伴武雄の生家)

「有斐学館は大野村(平生町)吉村軌一が同村の漢学者落合敦の助力をによって開設された私塾であった。独歩と有斐学館と関係が生じたのは、吉村軌一の長女君が吉見家の長女チエと大野・平生村立小学校で親友であった。君はよく吉見家にゆき独歩に英語などを習っており、彼にはぐくまれた少女の一人であった」 「青年時代の国木田独歩」より

28’ 「有斐学館跡地」の石碑

2023年3月に平生図書館に行って、有斐学館跡地のことを尋ねた折、館長さんから「平生町郷土史研究会々誌」2022.(3.10発行)を戴いた。その最後のページに「有斐学館」の記事と「有斐学館跡地」の写真が載っていたので、ここにその説明文を掲載させていただく。写真は現地に行って自分で撮ったものである。
「有斐学館は大野村(現在の平生町 大野北)の吉村軌一が大野村の漢学者 落合敦(号
夙典)の助力によって開設された私塾である。
明治24年12月に開設され、英語・漢学・数学の三学科を教授していたという。独歩が有斐学館の英語講師となったのは、明治24年(1891)年11月である。独歩は柳井に住み、田布路木垰を越えて通勤していたという。」「平生町郷土史研究会々誌」第25号より

令和5年(2023年)4月5日「平生町郷土史研究会会長 立畠浩様より上記掲載のご了解を得ました。そのご好意対し厚くお礼を申し上げます。

(場所: 大野 今井バス停留所の近く)

29.遺稿「我が過去」に出てくる山、川、海
「山と海と川と林と恋と、我が所有は之れなりし。箕山(みのやま)、高塔(たかたふ)、千峰(せんぼうー千坊山)、招魂社(惣田山の麻郷神社-護国神社)、岩城(いわき石城山)、琴石(こといし)の諸山、麻里布の海、岸之下の海(戎が下)、八海川、麻郷村を暗く隠す松林、而して彼女と彼女と彼女と彼女、之れ即ち彼地に於ける我一年なり」

(1)ふるさと詩情公園から望む岩城(いわき石城山)

(2)八海川から望む箕山

 

(3)大波野から琴石山、三ケ岳を望む

(4)麻郷から望む千坊山

29. 行者山の頂上から眼下に田布施の町、八海川、平生湾

*  上記1番の「国木田独歩仮寓吉見家跡」の吉見家の説明の一助として国木田独歩全集 第一巻 p.249「吾が知る少女の事を記す」の最初の部分を此処に紹介する。

「吾が知る家に三人の少女あり。長女は今年十六歳、次女は十二歳、末は八歳。今茲に記さんと思ふは次女が事なり。次女名を春と云ふ。姓は之をかくし置かん。ただそれ少女事のみ。別だん面白き事のあるにあらず。ただ此の少女、其性質いかにも美はしく、逢ふて見る毎に、語る毎に、共に戯るゝ毎に、いたく吾を動かすところあればなり。 少女が家は大体の地勢より言えば海浜なれども、実際は海より十数丁を隔(へだた)りたる小丘起伏の木陰にあり。吾が家族かって此家族と同居し、いと親しき交りあれば、少女等も吾を呼びて「兄様」といふ。此家勿論近在の富家なり、地下のものは少女等を呼びて皆な嬢様といふ。

われ常に思へらく春嬢は決して地上のものに非ず、山林の女神殊に朝な朝な露をあつめて此少女が心に吹き込みしならめと。玲瓏(れいろう)として玉の如く清し。少しも虚飾といふを知らず。野の百合花の如く自然そのまゝなり。凡(すべ)ての少児は悉く無邪気なり、されど此少女に至りては単に無邪気といはんよりも、一種口にも言ひ難き品性をそのふ。」

*明治30年1月22日 夜記

「あゝ、山林自由の生活、高き感情、質素の生活、自由の家。あゝこれ実にわが夢想なりしものを。われ自由をすてて、恋愛を取りしものを、恋愛更に此の身を捨てたり。塩原の山を出づる時、後ろに恋しき少女の涙にわかれ、前に北海山林の自由を夢みつゝ、遥かに那須が原の大漠を見下せしをりの感をわれ何時までか忘れ得ん。

嗚呼、元越山よ。阿蘇の峰よ。番匠の流れよ。高叫山よ。周防灘よ。空知太の森林よ。那須の原よ。千房の峰よ。岩城山よ。箕山よ。琴石山よ。凡ての是等のなつかしき自然よ。願くは吾を今一度、自由の児、自然の児とならしめよ。」

 

* 上記の項目の中、特記すべき箇所を「柳井地方と独歩」の栞 (柳井市教育委員会)より

地図と説明番号で次に掲載させていただく。この中の番号は上記の番号とは無関係である。

(1と2は間違いー1(浅海家) 2(石崎家)

* 平成31年3月1日に「青年時代の国木田独歩」の著者谷林博様の生家である積蔵寺(しゃくぞうじー柳井市新庄)を訪ねた。
現在では著者没後、奥様もご逝去され、お子様もおられないので著者の令弟に当たる谷林五月様(積蔵寺住職)に暖かく迎えられた。
柳井図書館を訪ねて、パスワードで保護中の上記ホームページ「田布施町と国木田独歩」の内容を見てもらい、柳井市図書館、及び教育委員会関係の参考図書などから写真や説明記事を掲載させていただく了解を得ようとした所、谷林博様のご子孫の所在地が分からないので、了解を得ることができない」という趣旨の返答を受けたことを説明した。
そしてホームページを開いて谷林様に説明しながら、関係箇所を見ていただいたところ、「これなら兄も喜ぶでしょう。どうぞ公開してください」という嬉しい了解を得ることができた。
著者の谷林博様が国木田独歩関係者から譲り受けられた「国木田独歩の額縁写真」及び独歩の令弟に当たる佐土哲二様が創作された「独歩像のレリーフ」の写真を撮らせていただいたので、ここに紹介したい。
なお、この額縁写真は次のホームページ「国木田独歩 生誕150年を祝おう!」
にも掲載させていただきます。

昨年はベートベン生誕250年
今年は国木田独歩 生誕150年
みんなで祝おう國木田獨歩生誕150年
2021年7月15日
2020 Beethoven Birth 250th Anniversary
2021 Doppo Kunikida Birth 150th Anniversary
Let Us Celebrate His Birthday!
July 15th 2021

 

   田布施町郷土館 高橋館長が「国木田独歩 生誕150年記念 高塔山・

   吉見家跡周辺 実踏調査」の結果を3回にわたりブログに公開されました。

   2021年5月27日に高橋館長のご了解を得て、次にリンクを貼らせて

   いただきますので、どうぞ次をご覧ください。

   

 

  「国木田独歩 生誕150年記念 高塔山・吉見家跡周辺 実踏調査(1/ x)
          https://blog.goo.ne.jp/simyo124/e/6bdc67fe00b12f50f5a5715f1cae4316
       
  「国木田独歩 生誕150年記念 高塔山・吉見家跡周辺 実踏調査(2 / x)
          https://blog.goo.ne.jp/simyo124/e/564ae2449ce73ccf005f147aeb22f112
       「国木田独歩 生誕150年記念 高塔山・吉見家跡周辺 実踏調査(3 / x)
           https://blog.goo.ne.jp/simyo124/e/bd1dc911131e448ca34a5f721e64d672

 

 国木田独歩が「我がふるさと」と呼んだ山口県の田布施では
 2021年7月15日につぎのような記念行事を開催いたします

最後まで見てくださいまして有難うございます。何かお気づきの点がありましたら、どうぞ下記メールアドレスへお知らせください。

   Mail Address:tfujisan786@mx5.tiki.ne.jp

 

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